記録

自分の日記帳のように使用していますが、是非コメントいただけると嬉しいです

欅坂46の改名は吉と出るか凶と出るか

先日のオンラインライブで改名を発表した欅坂46

f:id:yukinosita_yagate:20200727014124p:image

まず欅坂46のキャプテン菅井友香について触れたい。

彼女は品行方正、ひたむきでまっすぐな優等生であるにもかかわらず、欅坂46が何かと世間を騒がせる度にキャプテンとして矢面に立たされる場面が増えた。そのため、ファンからは「もう彼女が頭を下げる姿を見たくない」「他のメンバーやスタッフは彼女に頭を下げさせないようにすべき」などと彼女を擁護する声が目立つようになった。

 

しかし、彼女の謝罪はドラマチックを売りにする欅坂46には必要な要素なのである。

 

例えば、あの場に運営スタッフが表れて、改名を発表したらどうなるだろうか。

まず第1に、それは欅坂の世界観の崩壊を意味する。メンバーにとって、またメンバーを支えるクリエイター集団にとって、あの舞台は病的なまでに神聖な場所なのだ(この意識が紅白歌合戦の原因の一つである)。だから、演者以外の者が土足で踏み込むことは許されない。

 

第2に、受け手である私たちとしても、突然あの場に知らないスタッフが出てきて発表したところで、上手く感情移入することができず、興ざめしてしまう。AKB48の戸賀崎元支配人のように名が知れた幹部がいるのであれば別だが、そのような存在は欅坂46にはいないだろう。

 

このように、結局あの発表を行うのは菅井友香しかいなかったのである。本当に気の毒な役回りを強いられてしまったとしかいいようがないのだが、結果的に、今回の彼女のスピーチは彼女が愛する欅坂46を守りきったといえ、大成功だったのではないか。

 

この記事の最後に、彼女のスピーチの全文をモデルプレスの記事から転載しておく。少し長いが、それでも読む価値があるものなので、是非ご覧頂きたい。

 

 

いよいよ本題、欅坂46の改名について。

この判断は吉と出るか凶と出るか。

SNSの反応を見ていると、これについては五分五分、いや凶と出ると見ている人の方が多いように思える。

 

その要因として1番大きいのが欅坂46」のブランドを失うことである。サイレントマジョリティーが大ヒットし、平手友梨奈が世間の大きな注目を集めた結果、良くも悪くも欅坂46の名は世間に知られることとなった。

この看板、ブランドは今の欅坂にとって最も大きな財産であり、守り続けるべきもののように思える。

(例えばTOKIOは、会社名としてこのブランドを存続させた。)

 

しかし、この看板こそが欅坂が抱える一番の問題だ。

それは 欅坂46=平手友梨奈という認識である。

平手友梨奈欅坂46を築き上げた以上、欅坂46平手友梨奈を越えられないのであって、

彼女が脱退した今、平手友梨奈を引き継ぐスターを発掘できない限りこのイメージは足枷にしかならないのだ。

そのため、スター"候補"たる山崎天や森田ひかるの発掘にとどまっている現状では、やはり欅坂46という縛りからの脱却しか道は残されていなかったのである。

 

しかし、改名したところでどうなるのかという指摘もあるだろう。

たしかに、運営母体やメンバー、スタッフは変わらないのだから、本当に名前が変わっただけにすぎず、改名したところでこの厳しい状況が打破できるとは思いがたい。その点に関しては私も同意したいと思う。

しかし、私はそれでいいと思っているのである。なぜなら、私は欅坂46に国民的アイドルの階段をかけ登って欲しいわけではなく、ただただ一生懸命に励むメンバーたちに、一生懸命に取り組める環境や、やりがいを確保してあげて欲しいと思っているのだ。

だからどんな結果になろうとも、またゼロからグループを築き上げることに意味があるのである。このグループは紛れもなく自分たちのものだと、自信を持って言えるように。

 

かつて欅坂46のメンバーたちは口々に、「この21人でいたい」「1人でも欠けたら欅坂46ではない」と言っていた。そして、私たちはこの儚さにロマンを見ていた。だから自分勝手な私は、そのロマンを取り戻したいと願うだけなのだ。

 

どうかこの改名を機に、彼女たちには、女子校の放課後のような和気藹々とした雰囲気や、学生が部活にかけるような熱い青春の思いを、なんの気兼ねもなく取り戻して欲しいのである。

 

 

菅井友香キャプテンのスピーチ全文

「改めまして欅坂46を応援していただき、ありがとうございます。配信ライブをここまで見てくださり、本当にありがとうございます。久しぶりのライブですし、いつも支えてくださる皆さんに、久しぶりに私たちの元気な姿とそして楽曲のメッセージ・パワーをお届けしたいという一心でパフォーマンスさせていただきました。皆さんには届いていますでしょうか?

そして私たちから皆さまにお伝えしたいことがあります。私たち欅坂46は、この5年間の歴史に幕を閉じます。そして欅坂46とは前向きなお別れをします。10月に予定している欅坂46のラストライブにて、欅坂46としての活動に区切りをつけさせていただきます。そして新しいグループ名となり、生まれ変わります。

もちろんこの決断をすぐに受け入れられるメンバーばかりではありませんでした。私たち自身も欅坂46に対する思い入れがすごく強いですし、ここまで半端な気持ちでこのグループとして続けてきたわけではありません。私自身も大好きな欅坂46をずっとずっと守ることができたらなと思って活動してきました。でも…でも…このグループとしてもっともっと強くなるための決断だと、今日までスタッフの皆さん、そしてメンバーのみんなと話し合った結果、今は前を向いています。

欅坂46だからこそ叶えられた夢がたくさんありました。今ここにいないメンバーも含めてみんなで叶えられたこと、そして応援してくださった皆さまがいたからこそ、叶えられたことがたくさんあります。心強いメンバーやスタッフの皆さん、そして素敵な楽曲、そして本当に素敵なクリエイターチームの皆さん、そして数え切れないくらいの応援してくださる皆さまと出会えたことは本当に誇りです。本当に今まで欅坂46に出会ってくださって、欅坂46を好きになってくださって、欅坂46を支えてくださって、本当にありがとうございました!

たくさん楽しい思い出があった一方で、正直悔しい思いもたくさんしてきました。なかなかこの2年は特に出口の見えないトンネルを彷徨っていた状態だったと思います。予測できないことがたくさん起きて、思うように活動できない時もたくさんありました。応援してくださっている皆さまの期待に応えられていないんじゃないかなって思う時もありました。

そしてメンバーの卒業・脱退も続きました。グループの名前が1人歩きして、耳を塞ぎたくなるようなことに悩まされたこともありました。でも欅坂46を好きだと思えば思うほど苦しくなり、もっとこうしなければならないと考えれば考えるほど、執着が生まれたような気がします。今、グループとして強くなるために、新しく入ってきてくれた2期生、新2期生、そして1期生の28名でここから新たなスタートを切り、ここからまた皆さんとたくさんの夢を叶えていけるように頑張りたいと思っています。

そしてここから強くなるために、今まで大切にしてきたものを1度手放すことで、あいたスペースには本当に大事なもので満たされるんじゃないかなと思っています。ここからのリスタートになるので、相当な茨の道が待っていると思います。でもまだ色のない真っ白なグループを、皆さんと一緒に染めていけたらいいなと思っています。欅坂46で培った経験がきっと私たちを鍛えてくれています。ですので、この経験を信じてまた新たに強く強いグループになることを約束致します!ですので、これからも私たちに期待していてください。これからも私たちの応援、どうぞよろしくおねがいします!」

ゲーム「Ghost of Tsushima:ゴーストオブツシマ」について

・この記事には、ネタバレを含みます。

 

2020年7月17日に発売された「Ghost of Tsushima:ゴーストオブツシマ」

f:id:yukinosita_yagate:20200728133911j:image

鎌倉時代元寇を題材としたこのゲームは、アメリカで制作されたものです。にもかかわらず、日本人がプレイしても何ら違和感のない世界観が作りこんであるところが、今作最大の魅力なのではないでしょうか。

この点、歴史的事実と若干の相違があることや、四季が混在していることに指摘があるそうですが、ゲームをプレイする上では全く気になりませんでした。ちなみに、四季については制作側も承知済のようで、より美しいグラフィックを追求した結果だそうなので、わたしは大賛成です。細かいことを気にせず、自由に楽しめるというのもゲームの魅力ですからね。

 

そしてこの作品は黒澤映画に強い影響を受けており、それは「黒澤モード」なるモードが設けられているほどです。ちなみにこのモードでは、画面がモノクロの映画調になります。

 

私はこのゲームをプレイした全プレイヤーに、この2つの質問を投げ掛けたいと思います。

 

 

①境井仁を支持するか、志村を支持するか。

私は志村を支持します。といっても、もちろん志村の考えに全面的に賛成できるわけではありませんが。

 

境井の考えは、乳母である百合の考え方の影響を強く受けているようで大きく異なっています。

百合の台詞として、「動かない石は、水の流れに削られるもの」という印象的な言葉がありました。この百合の言葉には、保守的な考え方の志村を動かない石に例え、勇気ある行動を勧める意味合いがありました。

しかし、百合が理想としているのは、仁の父の考え方、つまり「豊富な教養と柔軟性」です。百合や父は、決して誉れを軽んじているわけではないのです。

 

対して、仁は「誉れがなんだ」と言い切ってしまいます。背後からの不意打ちなど、武士にとっては禁忌ともいえる戦闘方法を平気で行います。もっとも私としては、戦闘方法に関しては特に批判することはありません。なぜなら、多勢に無勢の状況でモンゴル兵を倒すためには必要な行為であったからです。

問題なのは、武家の秩序を乱す行為です。民は、仁を見て、支配者に反逆することを覚えました。このことは、今後の統治に大きな悪影響を与えます。このことは非常に深刻です。なぜなら、現代とは違って、下層の支配階級の者に教養や知識が備わっていなかった時代において、反逆は地域の崩壊や壊滅的な戦いにつながるからです。

つまり、志村氏が武家のやりかたでモンゴル兵に挑戦し、敗北するのであれば、それでよかったのです。仮に対馬が陥落したとしても、本土の抵抗が成功すれば、その段階でモンゴル兵の台頭は食い止めることができます。また、そうすれば「従うものには褒美をやる」というモンゴル兵たちは、民を平和的に支配したと考えられます。

つまり、仁は対馬をモンゴル兵から守る」という点においては非常に重要な役割を果たしましたが、「民を守る」という点においては、役立っていないのです。

仁の「敵をとる」という意識や、「目の前の人を助ける」という意識は、個別の事例では素晴らしい行いかもしれませんが、全体として長期的に見た場合には褒められたものではありません。

この点を理解していた志村は、あの時代における真の統治者だったのではないでしょうか。

 

 

 

 

②最後の勝負では志村に対して、どちらの選択肢を選ぶべきか。

 

私には、生かすという選択肢しかありませんでした。なぜなら、殺すことを正当化する理由が全く思いつかなかったからです。

幼い頃から稽古をつけ、世の中の道理を教えてくれ、人生最大のピンチの時に助けに来てくれた唯一の救い家族を、何故理由もなく殺すことが出来るでしょうか。

 

しかし、私が見ていた配信者さんは、「殺す」選択肢を選びました。すると、ある意味ハッピーエンドにたどり着くことができたのです。

境井仁は、自らの命を守ることができました。また、仁がモンゴル兵の打倒に成功すれば、モンゴル兵から救われる対馬の民が大勢現われるでしょう。

そして志村も、誉れある死を遂げることができました。

 

しかし、ここで志村が得た「誉れ」とは何なのでしょう。息子に殺されるのとの何が誉れになるのでしょうか。

考えられる理由はいくつかあります。

一つは、戦いで命を落とすことができたという点です。先の戦いで異国の軍の野蛮な戦術によって、無惨な死を遂げた姿を見ているため、そのような死をたどらずに済んだという安心感もあったのではないでしょうか。

二つめは、息子の成長を感じることができたという点です。道中で度々、仁の活躍から成長を感じとる場面がありましたが、やはり剣術の師にとって自分の教え子が自身が授けた剣術によって自らを超えていくことは至極の喜びでしょう。

三つ目は、本音を伝える機会を得ることができたという点です。志村は長としての立場がありますし、鎌倉の将軍の御家人として奉公を誓っているため、仁を咎め、殺さなければならない社会的立場にありました。

しかし、仁があの場で謀反を起こすことで、仁を生かす選択肢、つまり志村にとっては息子を守る選択肢が生まれたのです。

二人きりだからこそ、志村は一人の叔父として、仁を息子と呼ぶことができたのでしょう。つまりあの戦いは、志村が嘘偽りのない正直な気持ちを表せる最初で最後、唯一の場所になったのです。

ゲーム「UNDERTALE」について

※この記事にはゲームのネタバレが含まれています。このゲームは、初見プレイの衝撃が魅力的なゲームですので、未プレイの方の観覧はご注意ください。

 

 

今回ご紹介するゲームはこちら、「UNDERTALE」です。

f:id:yukinosita_yagate:20200726232424j:image

私自身がプレイした訳では無いのですが、プレイ動画を視聴した感想などをつらつらと書いていきたいと思います。

 

・実況配信者さんについて

今回お世話になった配信者さんは、「そっしー」さんです。普段はmildomやYouTubeで活動しています。

https://m.mildom.com/playback/10701245?v_id=10701245-1593856246401-3410

初見プレイらしいもどかしさや衝撃を素直に受け止めてくれるので、生感覚を共有できて楽しかったです。

あと、実況スタイルや声が落ち着いているので、10時間近くのぶっ通し動画も心地よく聞き入ることができました。

 

・UNDERTALEの特徴

まず初めに、ゲームの紹介から。

 

特徴をざっくりまとめるとこんなかんじです。

①インディーズゲーム

RPG

③ドット絵

 

①インディーズゲームについて

このゲームは、 Toby Fox氏によって制作された海外のインディーズゲームです。インディーズとは、簡単に言うと個人制作のことで、任天堂などの大きな会社が創ったゲームではないということです。

そのため、インディーズゲームは大抵の場合、発想や着眼点は良くても、その細部のクオリティに難があることが多いのですが、UNDERTALEは違いましたね。

 

RPGについて

このゲームのジャンルは、「RPG」です。ドラクエファイナルファンタジーなどを想像していただけると良いと思います。プレイヤーが主人公を操作して、道中でモンスターを倒したり、人々と触れ合いながら目的を達成するゲームのことです。

ただ、UNDERTALEはただのRPGじゃないんです。むしろRPGへのアンチテーゼ的な側面が非常に強く、このメッセージ性こそ最大の魅力の一つとなっています。

その象徴が、こちらのキャッチコピーです。

 

「誰も死ななくていい、優しいRPG

 

どうでしょう?

このキャッチコピーを聞いて、なるほどもしかしてこういことか、と思う人は、これまで様々なRPGをやりこんできたゲーマーの方だと思います。

 

③ドット絵について

このゲームは2010年代に作成されたゲームですが、MOTHER2などの懐かしのゲームからインスピレーションを得ていることも影響して、主なグラフィックは、ドット絵で作成されています。

ドット絵というと、古いとか画質が荒いとか悪いイメージがあるかもしれませんが、このゲームをプレイすればみなさんにもドット絵の良さに気づいて貰えると思います。

ドット絵のグラフィックは簡略化されている分、プレイヤーの想像力でその行間を無限に補うことができます。また、今作ではドット絵特有の色使いの大胆さも存分に活かされていて、ボス戦の特殊演出は鳥肌モノです。

 

・UNDERTALEの魅力

①愛すべきモンスターたち

②最高の音楽

②メタ読みの上手さ

③強いメッセージ性

 

①愛すべきモンスターたち

万が一未プレイの方がいた場合に、その方たちの初見の感動を奪ってしまうことは避けたいので、モンスターたちのグラフィックデザインを掲載することはしませんが、一人一人が本当にかわいらしい、又はかっこいいデザインです。

また、キャラクターの背景や心情、関係性が全てのキャラクターで丁寧にえがかれているため、どうしても感情移入してしまいます。

私は特にキャラクター同士の関係性が描かれるところが好きだったので、アンダインとパピルスの会話には癒されました。

 

②音楽の良さ

ポップなシーンではポップな曲、シリアスなシーンではシリアスな曲、盛り上がるシーンでは盛り上がる曲、という当たり前のようで難しいことが完璧に達成されています。何度聴いてもアンダイン戦のBGMはしびれます。

調べると、Apple Musicサウンドトラックが追加されているようなので、ぜひ聞いてみてください。

ただ、一部曲にネタバレを含みますので、あくまで初見はゲームで楽しみたいという方はプレイ後に聞いてみてくださいね。

 

③メタ読みの上手さ

Nルート、Pルート、Gルートの3種類があるため、多くのプレイヤーが全ルートの周回を目指すと思われますが、N→P→Gの順番を目指した方は皆心を打ち砕かれたかと思います。

このゲームには様々なトラウマ要素がありますが、このシーンはトップクラスなのではないでしょうか。実際に私がプレイヤーだったら、再起動した後にGルート攻略を諦めていたと思います。

 

そして、様々な分岐に合わせたメッセージをつくったTobyFox氏にはただただ脱帽するしかありません。私はゲームプログラミングについて造詣が浅いので、2年7ヶ月という制作期間が長いのか短いのかの仔細はわかりかねますが、インディーズゲームとしては驚異的なスピード制作だったのではないかと思います。本当にすごいですね。

 

④強いメッセージ性

どのモンスターにも家族があり、未来がある。現実の世界には1人だってモブキャラはいない。

言葉にすると当たり前のメッセージになってしまいますが、今まで数多くのRPGをプレイし、数多くのモンスターを倒してきた人にはかなり刺さる視点だと思います。

もっとも、UNDERTALEの影響でRPGが楽しめなくなったという結末は作者も求めていないでしょうから、大切なのは"リアルとゲームの区別をつける"ということでしょう。

 

ゲームだから許されているだけで、リアルでは許されないことなんだ、ということをしっかり認識した上で、今後も色々なRPGを楽しんでいきたいですね!

映画「ツレがうつになりまして」を観て

この映画と原作の漫画がブームになったのは2010年付近なので、もうそれから十年も経つんですね。アマゾンプライムで見つけて懐かしく思ったので見てみました。

f:id:yukinosita_yagate:20200727002918j:image

 

この作品はタイトルの通りうつ病をテーマにしたもので、うつになった"ツレ"を堺雅人が、それを支える妻を宮崎あおいが演じています。

 

テーマがテーマだけに、この病気に馴染みのない人にとっては衝撃的な表現が多々あるとは思う一方、身近にこの病気を抱えている人がいる人にとっては随分マイルドな表現に感じられるかもしれません。

後者である私の感想としては、うつ病の症状自体はかなりリアルに表現されているものの、周囲の者の苦労や理解についてはかなり美化されているように感じました。

 

この病気は、ウイルスなどによって他人に感染する病気ではありませんが、近くにいることで影響され、同じ病気を発症してしまうケースはままあると言われています。それほどまでに身近な人に影響を与える病気なのです。

 

 

例えば、この病気の人は飛躍した論理で自分を責めたりすることがあります。

そのような場合、その論理の飛躍を冷静に指摘して、自分を責める必要はないのだと伝えてあげる、ということが一般的な手法だと思われますが、これが何日も続けばどうでしょう。

二三日であれば優しく言葉をかけてあげることができるでしょうが、1週間、2週間、1ヶ月というふうに続いていくと、どんなに優しい人でも少しウンザリしてしまうのではないでしょうか。

すると、いくら病気に対して配慮を持って接することを意識していても、人間ですからトゲトゲとした感情を見せてしまうことがあります。

 

この映画では、ハルさんが怒る→ツレが自殺未遂をする→ハルさんが気づいて反省する、というステップが一日のうちに発生しているため、早期の問題解決ができています。

しかし、現実には、

ハルさんが怒る→ツレが落ち込む→ハルさんが怒る→ツレが落ち込む→…というステップを何度も何度も循環し、そのストレスがある日突然許容できる範囲を超えて、ツレが自殺未遂をするということに繋がってしまうのです。

そのため、ハルさんが気づいて反省するというステップをとることが出来る時には、既に手遅れになることがある、ということがこの病気の恐ろしさでしょう。

 

 

またこの病気は、真面目で几帳面で優しく、責任感が強い人が発症してしまうことが多いです。そのため、周りに迷惑をかけまいと自分のストレスを1人で抱え込んだ結果、限界が来た時に衝動的に行動に踏み切ってしまう点にも恐ろしさがあります。

 

 

 

少し作品から話が逸れてしまいましたが、上述のように多少美化された部分はあれど、この作品は総じて高い評価を受けるべき作品です。

以下にそのポイントを列挙します。

 

 

①症状がリアル

「電車に乗れない」「携帯電話がこわい」というのはこの病気の典型的な症状です。また、これらの症状が前ぶれなく突然あらわれるという点についても上手く表現されていたと思います。

 

うつ病といっても、24時間365日笑えないくらい辛いという人はなかなかいません。作中でも描写がありましたが、雨などの天気や、夜などの特定の時間帯に症状が悪化するなど、その症状の程度にはムラがあります。

だから、この病気の人に対して「あの時はできてたのに、なんでできないの?」などといった言葉は禁句なのです。

 

また、病気が再発して自殺を及んでしまった青年の存在をカットせずに示したこともか良かったです。

この映画では、再三うつ病心の風邪という表現がありましたが、その症状の深刻性は風邪の比ではありません。この点、誤解を防ぐことが出来たのではないでしょうか。つまり、「うつ病心の風邪」という言葉はあくまで病気の発症過程の話であって、症状の軽重に言及したわけではないのです。

 

 

②周囲の理解のなさがリアル

会社の上司は論外としても、実はハルさんでさえ、物語の序盤にはこの病気の人に対する禁句を何回も口にしています。

例えば、「ただ疲れてるだけだよ、風邪じゃない?」とツレの痛みにまともに取り合わなかったり、寝癖など本人の出来ていないところを何度も指摘するなどです。

 

しかしその後、ハルさんは病気に対する理解を深め、「会社なんてどうでもいいんだよ」とツレが感じる責任を軽減させたり、「何も出来ないんじゃなくて、何もしないだけ」とツレの罪悪感を軽減させたり、「会社辞めないなら離婚する」など強引に迫るなどしてツレを守っています。

(もっとも、3つ目のセリフに関して、この病気の人に過度な精神的負担を与えることは危険ですから、全ての人に対してこのような言葉が有効であるとは限らないことには留意すべきでしょう。)

 

このようにハルさんの理解が進んだことを象徴するシーンが、ツレの兄の訪問です。

理解がないからとはいえ、ツレの兄の発言はひどいものでしたね。「土足で踏み込まないで欲しい」というハルさんの言葉は、ツレの唯一の味方として力強く感じました。

 

そして後から気づいたのですが、ハルさんは一度だって、ツレが病気になったことを責めていないんですよね。

このような理解者が身近で支え続けてくれたツレは、本当に恵まれていると思います。

 

 

③再発の可能性を強調

この映画は完全なハッピーエンドではありません。なぜなら、この病気は再発の可能性が非常に高く、ツレの病気の心配が無くなったとは言えないからです。しかしこの点、ツレはこの病気と上手に付き合っていく決意を表明していましたね。このために必要な努力は、並大抵のことではありません。油断は禁物です。

にもかかわらず、彼らならこの先の困難や試練を何とか乗りきっていくだろうという安心感と信頼を視聴者が抱くことができたことが、彼らの成長を表していると思います。

映画「西の魔女が死んだ」を観て

今回ご紹介するのは、こちらの英語です。

f:id:yukinosita_yagate:20200727003017j:image

 

この作品は、全てを語らないおばあちゃんを中心に描かれたものであるため、人によって様々な捉え方やポイントをがあるでしょう。

 

私自身、序盤は「現代の生活の豊かさ」や「自然と生きるということ」「人間関係の難しさ」などのテーマを背景に感じながら鑑賞していました。

しかし、後半30分によって「おばあちゃんの弱さと孤独」に目を向けずにはいられなくなりました。

 

穏やかに凛と生活していたおばあちゃんは、自分の生活がオールドファッションだと悟っていたのでしょう。

それでも、何十年も営んできた生活のスタイルを変えることは容易なことではなく、また途中で変えたところで今までの生活の否定になってしまう故、昔と変わらぬ生活を営み続けたのでしょう。

もちろん、この選択は上記のような消極的な理由だけではありません。この生活を自分は好むのだという揺るぎない信念を持った積極的な選択であったと思います。

 

しかしある日、おばあちゃんの日常の中に、「まい」という非日常があらわれたことで、その信念に少しの揺らぎが生まれたのではないでしょうか。

 

まいと過ごす日々の中で、おばあちゃんは、まいとジャムを作ること、まいにお茶を入れてあげること、そういった非日常的なことが「平凡な日常の中の幸せ」だと感じるようになったのでしょう。

つまり、"平凡"な日常の中に、"非日常"を求めてしまうという矛盾ですね。

まいにとっては、おばあちゃんの日常を共に過ごしていたつもりだったのでしょうが、おばあちゃんにとっても、まいとの日々は非日常だったわけです。

 

 

そして、この経験は2人にとってかけがえのない大切なものたと同時に、2人は自分とは異なる新しい世界を知ってしまいました。すると、隣の芝は青く見えるものですから、ifルートを想像してしまうことは仕方の無いことです。

 

この点、まいはこの先の人生を自分で選択することが出来ますが、おばあちゃんは人生を選択し終えた後に、他にあった選択肢をまざまざと見せつけられたわけです。

例えば、まいのお母さんは、おばあちゃんとは真逆の生活を送っていますが、そのことについておばあちゃんはどう思っているでしょうか?娘の選択は幸せなものだったと手放しに喜べているでしょうか?

 

まいが家を去った後、おばあちゃんは1人で、このような様々なことを人生の終わり際に「答え合わせ」する自問自答を行ったのだと思います。

この孤独が視聴者の心に重い影を残すことになりました。

 

 

しかし、私はこの作品はハッピーエンドだと信じています。なぜなら、おばあちゃんは変わった人だからです。私たちが、おばあちゃんに"孤独"を感じたのは、私たちの感性にすぎません。

しかし、おばあちゃんの幸せを決めるのはおばあちゃんなのです。だから、おばあちゃんにとっては大きなお節介ですね。

私たちが人を愛するように、おばあちゃんは自然を愛しているのですから、おばあちゃんは全く孤独ではありません。

おばあちゃんは、たくさんの生き物に囲まれた豊かな生活を幸せに送ったのだと思っています。

 

それなのに私たちは「おばあちゃん」「一人」「孫との別れ」「死ぬ」という記号から、それらを結びつけるストーリーを勝手に想像し「孤独」という結論を導いてしまいがちです。

 

これは、もう日々の中で刷り込まれている感性だから仕方ない部分ではありますが、これはまさにまいがゲンジさんに対して行った思考と同じなのではないでしょうか?

 

まいはゲンジさんに対して、「顔つきが怖い」「口が悪い」「薄汚い」などの記号を、勝手に結びつけて想像を飛躍させ、「悪人」という結論を導いてしまいました。

しかし、そんなゲンジさんは無骨でダメな部分もあるけれど、根は優しい人だったのです。それを知っていたから、おばあちゃんはまいを叱りました。

 

だから、きっと私たちが「西の魔女は孤独を感じていた」なんて感じたことが彼女に知られたら、まいのように彼女に怒られ、諭されてしまうかもしれませんね。

 

 

最後に劇中の印象的なセリフを。

「自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、後ろめたく思う必要はありませんよ。サボテンは水の中に生える必要はないし、蓮の花は空中では咲かない。シロクマがハワイより北極で生きる方を選んだかといって、だれがシロクマを責めますか。」

おばあちゃんらしい例えが心を温めてくれます。原作の本では、このような素敵な言葉によりたくさん触れられるそうなので、是非読んでみようと思います。

 

 

 

蛇足ですが、この映画を見て少しでも祖母に喜んでもらえるような孫になろうと思いました。

この本が児童文学である所以は、このようなところにあるのかもしれませんね。

「古典×現代2020」の感想 後編

前編に続き、

早速各ブースの感想を書いていきたいと思います。

 

⑤仏像×田根剛

建築家の田根剛さん。2016年にエストニア国立博物館を設計されたそうです。私がエストニアを訪れたのは、おそらく2010年頃なので見ることが出来ず残念。

 

このブースは「体験型」の展示でした。

ガラスケースの中に入った日光菩薩月光菩薩がライトによって様々な場所から照らされるのです。

 

金は、光によって様々に表情が変わります。抽象的な意味ではなく、色の見え方が本当に違います。鉛色にも黄金にも、場合によっては脳が補完して赤や緑にも見えるのです。

昔は今よりも光源が少なかったでしょうから、揺らめく炎に照らされた金像は、仏教信仰と結びついて祈るものにメッセージを伝えてくれたのでしょう。

 

体験型ブームはコロナ禍で終わると指摘されていますが、皮肉なことにコロナ禍の中で体験型の魅力を知ることとなりました。

 

 

北斎×しりあがり寿

はじめ、しりあがり寿氏に葛飾北斎に対する冒涜を感じ、不快感を抱いたことが馬鹿らしかったと後悔しています。

今でこそ偉人のように扱われる北斎ですが、柔軟な発想力は当時異端と扱われていたのですから、そんな彼に変わって細々したことを気にするのはナンセンスでしたね。

 

これらは全て、リスペクトを持ってオマージュしている作品だということに気づいたときには、爽快感がありました。

しりあがりさんから北斎に対する挑戦状、ラブレター、いや自己アピールのエントリーシートだったわけですね。しっくりくる表現が見つかりました。

 

その後の「ー葛飾北斎天地創造 from四畳半」という映像作品でしりあがりさんのファンになってしまった気がします。この作品でも表現されていたように、北斎は遅咲きの画家なんですね。富嶽三十六景70歳を超えてから描かれたものです。

 

帰ってから作品リストを見て、「和紙にインクジェットプリント」との表記にクスリとしました。

その後、そういえば葛飾北斎富嶽三十六景の画集を持っていたことを思い出し、本棚から久々にひっぱりだしてみました。

f:id:yukinosita_yagate:20200720020220j:image

この画集は、筆者によって加筆されたコラムが面白くて、

富嶽三十六景のすごさはその構図

・海外のジャポニズムに影響を与えたのは富嶽三十六景というよりも北斎漫画」

北斎の娘、阿栄は腕のいい画家であった

ことなどが書かれていました。

構図に関しては本当に天才的としか言いようがありません。今でこそ飛行機で雲を上から見下ろすことはありますが、空を飛ぶ乗り物が存在しなかった当時、雷を見下ろすという発想は北斎以外持ちえなかったでしょう。

もっとも、構図に関しては北斎のオリジナルばかりではなく、既存の作品から影響を受けているものも多いんですよね。

 

また、たしかに阿栄に関しては、「吉原格子先の図」が有名ですよね。この技量に対して不自然なほどに残っている作品が少ないというミステリアスな点もまた魅力の一つです。

 

そして個人的に好きなのが、東海道五十三次を書いた歌川広重とのバチバチです。広重は富嶽三十六景を、「構図ばかりにとらわれて富士が二の次になっている」などと痛烈に批判しているんですよね。その後、広重も富士をテーマにした連載物を書いているあたりにも、強烈な執着と敵対心が見て取れます。

 

 

⑦乾山×皆川明

ミナペルホネンのパッチワーク記事の上に、乾山の作品が並べてあるショーウィンドウが一番好きでした。乾山の作品は、まるで北欧食器のように生地に合うんですよね。

 

尾形光琳、乾山の兄弟によって作り出された数々の作品には、どの時代にも通用する洗練性がありました。

 

 

蕭白×横尾忠則

これが本当に難しい。奇人として知られる蕭白と、それに見せられた横尾さんの共鳴ですから、理解しようとするのが無謀だったのかもしれません。

 

せめてとの思いで、思いがけないところに描かれたというかえるを血眼になって探しましたが、見つからず。木の模様をかえるだと無理やり思い込んで自分を納得させて帰りました。心残りです。まじでどこにいたんだ。

 

 

 

 

・総括

美術館っていいですね。他の営みに比べて、「何かを見て、感じて、考える」というフィードバックのサイクルが恐ろしく早い気がします。このサイクルを多く回していった人が教養人になっているのでしょうか。

大学生のうちにある程度の教養を得たいと思っていますが、それもなかなか高い望みだと気づいてきました。でも私は「教養コンプレックス」を克服するため、出来る限り頑張ってみようと思います。

 

さて、今回は以上です。

 

面白そうな企画のパンフレットを見つけたので、次回はこれに行ってみようと思います。

https://kimonoten2020.exhibit.jp/

f:id:yukinosita_yagate:20200720014119j:image

このきもの展、前期と後期で展示が入れ替わるようなので、本当は7月中に1度行きたいのですが、大学の期末レポートでバタバタしていて無理そうなので、見られるのは後期展示のみになりそうです。

上で教養云々描きましたが、そんなことは小さなことであって、単純に綺麗なものを見るという体験は癒されますよね。とても期待しているので楽しみです。

「古典×現代2020」の感想 前編

 

父親と久しぶりにどこかへ行こうということで、やってきたのがこの展覧会、「古典×現代2020 時空を超える日本のアート」です。

 

会場は、乃木坂駅近くにある国立新美術館で、以前当時のクラスメイト2人とフェルメール展を見に来たことを思い出しました。

 

 

新国立劇場の入口では、コロナ対策のためアルコール消毒と検温をします。体温が37.5度以上あった場合は入場できないそうです。

ここまで自転車で来た私と父親は、体が温まっていて少し不安でしたが、無事に館内に入ることが出来て一安心。

 

館内では2階の一番奥の展示室まで向かう間、スタッフさん以外の人にはほとんど遭遇しませんでしたが、展示室につくと入場列ができていました。

 

時間指定券の時間ギリギリに着いてしまった私たちは、急いで受付に向かってなんとか入場。パンフレットと紙入場券を受け取って、いよいよ展示会の始まりです。

(収集癖がある私としては、オンラインチケットであっても紙入場券を配布してくれるところがポイント高かったです。)

 

 

 

①仙厓×菅木志雄

〇をテーマにしたこのブースを見て、まず思い出したのがインド哲学「0」の概念です。その他にも果てしなく続く宇宙や、仏教の悟り、輪廻転生など様々なことがこの〇で表されてきました。

 

菅さんの空を支える支柱という発想には、目に見えない無を捉えるという点で面白さを感じました。

 

もう1つの作品は、自然物たる石をあるがままの姿で四角形に並べ、そのうちの3辺に人が通れるほどの隙間が空いていました。

しかし残念な私の頭では、そこから何を読み取ればいいのか考え込んでしまい、今でもモヤモヤしています。

 

 

 

 

花鳥画×川内倫子

展示方法はシンプルで、花鳥画と写真がそれぞれ壁に飾られていました。また、一番奥のスクリーンには、川内さんの3分程度の映像作品が上映されていました。

 

このブースで私が惹き込まれたのは川内さんの寄せたコメントです。細かい部分は記憶が曖昧なのですが、

「私が撮った写真に写る小さな生き物たちと、花鳥画に描かれた小さな生き物は同じものなのでしょうか?」

という趣旨のコメントだったと記憶しています。

 

つまり、

写真や映像は、ある意味残酷なまでに そこにある存在をあるがままに記録するのに対して、絵は、作者の感受性を無視して描くととは不可能だという点を強く強調したいのだと感じました。

 

そう考えてみると、次の映像作品にもつながってきます。

なぜなら、映像では、鳥の大群が様々な隊列をなして幾何学的な曲線を描く姿が表れていたのに対し、写真では、規則的な隊列が強調されたからです。

こちらでは、先ほどの例に反して、写真とは必ずしも真実を写すものではないことが表されているのでしょう。

 

客観性は、映像、写真、絵の順に

感受性は、絵、写真、映像の順に担保されているように思っていましたが、

その順を覆すほど、この方の撮る写真は、「朝」を感じる優しい光に包まれており、「写真の感受性」という可能性を強く感じる展示でした。

 

また、花鳥画に描かれた鳥の、瑠璃色、というのでしょうか。鳥の青色がとても綺麗でした。

 

 

 

 

円空×棚田康司

円空の作品と棚田さんの作品には、彫刻という共通点があります。

 

棚田さんの彫る人間の顔は整っています。まるで人の似顔絵のようです。しかし、気の木目がその作品を自然に根ざしたものに見せています。

 

対して、円空の彫る顔(人間ではなく神仏でした)はとても似顔絵のようとは言えません。なぜなら、木の特徴に合わせて、その性質に逆らわない線を彫っているからです。つまり、真の意味で自然に根ざしているのです。

 

現代の私たちは、木の木目を見ると「自然だ!」と感じてしまいますが、この展示を見てからは少し滑稽に感じてしまうようになるかもしれません。

 

また棚田さんの作品ではとくに、「宙の像」という彫刻が印象的でした。風に靡き膨らむスカートの質感を表現する技術は圧巻でしたが、それ以上にその像の女性とは目が合って離れないのです。

 

 

 

 

④刀剣×鴻池朋子

これほどまでに状態がいい日本刀を見たのはこれが初めてでした。刃の側ではない背の部分は、鏡のように鮮明に私たちの目を映し返すのですね。

 

鍋島家の彫り師の作品であるという不動明王の刻印がむちゃくちゃかっこよかったです。大きな刀ではないので、不動明王のデザインがコンパクトに密度高くまとまっていたのが好きでした。

 

また、このブースには今回唯一撮影可能スポットがありました。それがこの写真。

(蛇足ですが、この作品は個人所有だそうです。ここですら床についてしまう大きさなのに、どのように管理しているのでしょうか。)

f:id:yukinosita_yagate:20200720011731j:image

牛革を繋ぎ合わせたものをキャンパスに、クレヨンで狐や魚、臓器や火山などあらゆる生命が描かれていました。

 

そしてその皮を断ち切るように真ん中に吊るされているのが、銀のかたまり。人間の顔の形をした銀色の物体が、ふりこのように揺れているのです。いや揺れているというより横切っている?いや駆け抜けている?とにかくなかなかのスピードで往復しているのです。

刀剣との同時展示なのですから、この銀色の顔像は人間や「刀」の象徴であると考えるのが自然でしょうか。

生命を断ち切る銀色の刀。それは恐ろしい形相をしていました。

 

 

長くなってしまったので、つづきは後編で。